その35 【卒論提出へのリーサル・ウエポン(最終兵器)編】

時期:2003年03月〜04月                                               執筆日:2005年11月21日
2003年3月29日の卒論提出期限を目前にして俺は最高にあせっていた!なにせ完成には程遠いほどまだまだ出来ていなかったからである。そうして俺は最後の手段に出た。

当時の語学のレベルは、ドイツに来たての頃よりは喋れるようになってはいたが、それでも難しい言い回しはまだできず、言い方も直接的になる。俺は病院に行った。そして

医者「どこか具合が悪いんですか?」
俺「僕は今卒論を書いています。でも間に合いません。僕が病気ということにして卒論提出期限を延ばせるように証明書を書いてください。」

長いこと通いつめてお世話になってる医者ならまだしも、初診でこんなこと言われたらびっくりするのは当然だ。その医者も例に漏れず口をあんぐりさせていたが、とりあえず証明を出してくれた。あ〜恥ずかしかった。今ならもうちょっとマシな言い訳が出来るものを・・・。

そして証書を持って事務に行き、提出期限の延長を申し込んだ。延長できる最大期間は1ヶ月。証書も1ヶ月分もらってきた。実はこうやって提出期限を延ばす生徒は結構いるのだ。だから彼らや俺の先生(!)のアドバイスを元に実行したのだった。

しかし期間を延長したからといって卒論が簡単になるわけではなく、その苦しみが一ヶ月伸びたという形になり、忙しい日々は尚も続いたのだった。

その頃になると俺の先生が手伝ってくれるようになり、俺の歌のレッスンの時間を卒論の校正に回すことが多くなった。それは俺にはかなり大きな助けになった。そんな辛い事をかかえて良い歌が歌えるわけはなく、練習時間もなかなかとれなかったので、本当に彼女には感謝している。

前回言ったように、同時に劇場でのオペラ公演へ向けての稽古も佳境にさしかかっていた。初演は2003年4月20日。そして延長した卒論の提出期限は4月30日。もはやその頃の俺の生活は、寝て、起きて、卒論を書いて、稽古に行って、帰って、卒論書いて、寝て、の繰り返しだった。

オペラの初演は成功に終わった。服の内ポケットから女物のパンティーを取り出す演出を見事にこなし、観客も大いに笑っていた。自分も満足だった。それに他のソリストたちも素晴らしく、やはりプロのそばで歌うということは勉強になると改めて思ったのだった。

そして残すは卒論。校正を繰り返し、誤字脱字を見つけてはそれも修正し、完成したのは提出期限の30日ぎりぎりだった。急いでコピーショップにもって行き、本にしてもらう。事務に提出しなければいけないのは三冊だった。コピーし終わり製本も完成し、遂に・・・遂に提出した。俺の手を離れて全てが終わった時、本当に天使が俺を迎えに来てくれてるような気分になった。心と体は軽やかになり、知り合い全てに「終わったー!」と叫んで回った。

総数77ページ、評価は外国人が書いた論文にしてはかなりいい部類に入る2.3(1〜5までで、1.0が最高、4から下が落第)をもらった。今でも思う、本当によくやった。もちろん自分一人の力では到底できなかったと思う。特に俺の先生の手助け無しでは書き上げることは出来なかった。しかし、この手元にある製本された卒論を手にするたび、当時の苦労を思い出して更に頑張ろうと思うのである。


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